親の責任
知り合いの弟の子を自分ちの子がいじめるって話。
んで、知り合いが自分に文句を言ってくるという設定。
いじめるには理由があるかなきか。
いじめられている側にも理由をもとめようとしている気がする。
ので、いじめるのに理由はないに一票。
うざったいのでぶっとばす。
いじめることができるということに問題がある。
わたくしはヒトをこの手で殴ることはできない、と思う。
鉄板の入ったかばんとか飲み屋のイスとか
モノでは殴ることができると思う。
誰かに命令されたからなどと、言い訳を用意して
ヒトを痛めつけることは絶対にしないぞと考えている。
モノで痛めつけることも、
やりたいと思ったときにすぐ実行に移すのではなく我慢をするようにしている。
子どもに対しても、そう。
怒鳴りたくても、頭をぺしっとしたくても
冷静になるんだ自分っなにをするにもそれからだ自分っ
と、自分自身を押さえつける。
その我慢オーラが子どもにとっては恐ろしいらしい。
まさに鬼のような形相で耐えているのであろう。
ぶっとばされるよりも、ぶっとばされる前の恐怖。
痛いのを我慢するよりも、痛さを想像する恐怖。
痛みを知らないから痛みに慣れすぎているから
ヒトに痛みを与えることを躊躇しないのか?
いじめる子がいれば
理由よりも、なぜいじめることができるのかを追求したい。
躊躇なくヒトを殴ることができるのかを追求せねばならぬ。
なぜヒトを痛めつけるのはいけないのかを
親がしっかり自分の中に答えを用意して
揺らぐことなく伝えなければ。
そしてわたくしは今日初めて気がついた。
なぜに親に責任があるのか
親は子どもに愛されているからだ。
愛している人の言葉しか伝わらないのだ。
理想は相思相愛なのだ。
愛してくれるだけの人の言葉は伝わらないのだ。
自分が愛している人の言葉には耳をかたむけるのだ。
子どもに愛されている親だけが責任を取れるのだ。
| 固定リンク
« 80年代の男の子 | トップページ | 猪汁ラーメン »
この記事へのコメントは終了しました。

コメント