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2008年11月19日 (水)

読み聞かせって言葉

『読み聞かせる』:読んで人に聞かせる(広辞苑より)

ここのことろ、『読み聞かせ』という言葉への風当たりが強い。上から目線だとか、してあげるという押し付けがましさを感じるとか、色々な理由がある。
言葉ってやつは、理性ではなく感情に響くような気がする。
『教え子』って言葉はけしからんなんて。教師の不祥事が山となって目に付くものだから、こんな悪い教師たちが上に立つなんてどうよ?といった感情が、上から目線はけしからんという文句を生むと感じる。教師は聖職、敬うべき職業といった時代では、「昔の教え子が訪ねてくれて」なんていったって、なんとも思わないわけよ。
タマゴが先かニワトリが先かってなもんさ。
言葉だけを取り出して、『教育の基本的な姿勢の問題』『教育に関する感性が』なんて言ったって面白くもなんともないと思う。教師に対する不信感が先で言葉が後さ。

わたくしは『読み聞かせ』がいいね。
まぁ使い慣れていて、耳馴染みがいいからってのももちろんある。
わたくしは子どもたちに「読んで聞かせたい」のだ。わたくしが読むから聞いてくれという強い決意があるのだ。『読み語り』などという独りよがりなものでなく、聞いてくれというもう1歩進んだ気持ちがあるのだ。
しかしこれはわたくしの中だけのものだ。子どもたちに強制しようとは思わない。『聞け』ではなく『聞かせるぞ』なのだ。子どもたちはあっちを向いていてもこっちを向いていてもいいのだ。大げさなことを言えば、眠っていても・・。ただわたくしの声が聞こえていて欲しい。意識を向けてくれればそれにこしたことはないけど、耳に入っていれば良いのだ。
聞いてほしいのは読んで聞かせるている内容ではなく、わたくしの生の声なのだ。やさしい(だろうと思われる)、あったかい(だろうと信じたい)、目の前で出される生の声なのだ。

意識されねばならないのは、『読み聞かせ』という言葉から受ける今の印象ではなく、その裏にある心意気だ。だからわたくしは子どもに感想を求めない。その子どもの脳にやさしくあたたかい(だろうと希望している@卑屈?)声が沁みて、何年か経って、もしも子どもが自暴自棄になった時、子ども自身なんだかわからんが堕ちていかなかった。それを狙っているのだ。目先のどうのこうのではない、遠大な計画なのだ。

そしてなにより、読み聞かせはいくつかあるやり方の一つであり、目的ではないのだ。

目的は子どもが幸せに生きること。それだけなのだ。

でもでも言葉の呼び起こす「感じ」が意味を違えさせるという考え方にも深く共感を覚えます。身売りが援助交際と呼ばれたとき、深い深い河をひょいと乗り越える力を子どもたちに与えたと感じます。そんなことは数多くあります。だから言葉を大切にしたいと思います。だがしかし、実際子どもに押し付けがましくてなにが悪いのさとも思います。子どもにおもねすぎなんじゃねーのとも思います。愛があるゲンコツと愛のないゲンコツを区別できなくなった時、教育というのは違う局面に入ったのでしょうね。子ども=野獣。しつけ=愛。激情≠愛。力≠教育。子ども=愛。親≠全知全能

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